仏法弘まれ

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徳入寺の住職になってはや5年となりました。元々は大学を出てから銀行マン、その後日立製作所勤務のサラリーマンとして勤めていましたが、50歳過ぎて一念発起、会社を勇退してお寺を継ぐべく僧侶となりました。
それまで僧侶たる身分は親鸞聖人の目指した「非僧非俗」に反すると思っており、家は代々お寺の坊さんではありましたが、人生設計として求道者としては生きても、坊さんになる積りは全くなかったのです。しかし、近頃の世の中を見るとやはり、仏法が弘まりもっと思いやりと暖かさのある世の中になるようにする義務が私にはあると思い知り、坊さんになりました。
仏教が説くところは人は皆その生まれ立場で違いがあるが、佛の立場から見れば一緒、絶対平等と言われます。言い換えれば、無限の智慧から見れば人間の些細な智慧の優劣等は取るに足らぬものであるし又、その違いは環境が成さしめた部分が大半を占めている事を考えれば、個人の貢献は殆どなくそれゆえに、自分の手柄として誇ったり逆に欠点として卑下することは何もないのです。自分が偶々良い環境にいるのも偶然、逆に逆境にいるのも偶然なのです。その「偶然」は佛の無限の智慧から見れば、本当は必然であり因縁ですがそれは言わば「北京で蝶々が羽ばたけば、ニューヨークで嵐が起きる」ようなカオス系の必然なのですから人間にとっては「偶然」と呼ぶしかないのです。
阿弥陀佛とは、無限の寿命(慈悲)と無限の光明(智慧)を得た菩薩を表すサンスクリット語です。
浄土真宗は「南無阿弥陀佛」と言って我々有限な身体、心を持つ人間が絶対無限な智慧と慈悲に憧れてその佛に幾らかでも近づきたいと言う我々の願いなのです。地球上に生命が生まれて38億年になりますが、その大きな命から生まれて我々はそこに戻っていくのです。そう考えれば、人も自分も佛から見れば38億年の命の河の一つの泡のように差異はなく「同じ哀れな命」「同じ愚かな者」なのです。
その悲しみに立てば自分の尺度を押し付けたり、人を非難したりは出来ない筈なのです。浄土真宗は「御同朋」として親鸞聖人も含めて佛に身を任せた者は全て平等です。この世では自分の事しか目が往かない五悪の愚人ですが、せめて法蔵菩薩の願いに身を任せて浄土往生して佛に成りましょう。
そして報恩の念仏を称える生活を送りましょう。

徳入寺 住職

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